昨日までの寒い日
から一転、今日は9月下旬の気温ですって
風邪?花粉症??ってなって一週間、すっきりしない鼻
です
昨日は、祖母の帰宅に合わせて実家へ
10月25日は、母の命日、亡くなってから30年の月日が経ちました
私が母の年を抜いてから4年、尚更若かったな~と思います
同病だった母、発覚したときはステージⅢだったので
私の時に比べたら病状も進んでいて
「ハルステッド術」という、今ではほとんどやらない術式で
肋骨がはっきりとわかるほどの大きな傷跡でした
詳しい薬剤は分からないけれど、抗がん剤治療を受け
今では○○という薬で…って説明を受けるけど
当時は先生にお任せ・指示通りという遅漏の進め方だったから
薬の名前とかも聞いた覚えがないです
鎖骨にも転移していたので放射線治療も受けてました
当時は「コバルト」だったので、現在のものより一層
火傷の痕が酷かったように思います
残念ながら、治療の甲斐なく、6年目に55歳で亡くなってしまいました
母の主治医にも「娘さんも気を付けて」なんて言われてたけど
何を気を付ければいいの?なんて思ってたわ
「母世代より若くして掛かる」と言われたので
49歳のときに宣告されたときは「やっぱりね」とも思ったっけ
30年前は、一人目の子も小さく、よちよち歩く中で葬儀の準備
最後の入院から半年、痛みを訴えていたの
最期の2・3日は「モルヒネ」も投与されて、昏睡に近かった
亡くなったことは悲しいけれど、もう痛みを感じなくなってるんだと思うと
悲しみよりも救いの方が大きかったかな
実母の祖母はまた違った感覚でいたんでしょう
いくつになっても子供は子供ですものね
今ではボケボケの義父が「お母さんをなくすことは心細いことだろう」って
優しい一面を垣間見たことは覚えているの
(義母にはね「私はこの服でいいかい?」って聞かれて「はーー?
」
そんなこと自分で考えてくださいよ
だったゎ)
それからの10年は、二人目の子
も生まれて、仕事を変えて
幼稚園
→小学校→中学→高校→大学
とひたすら子供中心
自身は特に大きな病気をすることもなく、父の入院や義母の事故入院と
ちょっと看病っぽいこともあったわね
そして、今から10年前、母亡きあと20年目に
自分が乳がんと宣告されたんだった
ステージこそ違うけど、同じ病気を同じ年に宣告って
なんだかなぁ
食事にも気を付けて、ファストフードは極力摂らなかったし
運動は嫌いだからしなかったけど、太らないように気を付けていたし
掛かっちゃうものは掛かっちゃうんだよね
って感じ
それでも一回目の時は手術&放射線治療だけだったから
「がん患者です」っていう意気込みも少なかったわ
ま・さ・か
もう一回かかるなんて思わなかったもの
今では半分「なるべくしてなった病気」と思ってます
「遺伝」なのかなぁ~調べる勇気もないけど
もし「遺伝性です」って言われたら娘の人生にも関わるし
今年祖母(103歳)も乳がんと言われたから一層可能性高いでしょ
なんだかなぁ~~
10年前の今頃は「検査結果待ち」の日々
もしガンだったら5年後は?子供の結婚みられないの?孫の顔はって
毎日鬱々として日々を送っていたわね
その時の私に「大丈夫10年後そこそこ元気よ
ただし、未だ孫はおらず、娘は未婚だけどね
」って言います
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- 2016/10/26(水) 15:13:51|
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先週・29日の木曜日、義理の叔母がお亡くなりになりました
享年79歳、平均寿命からするとまだまだのお歳です
手のかかる
義父は4人兄弟、姉・義父・妹・弟、という構成で
姉と弟は亡くなっています、叔母は、この末の兄弟の奥さん
叔父亡きあと、6年間、一人暮らしをしていました
家と叔父・叔母の家は「本家」と「新宅」という呼び方で、道を挟んでいます
子供達(主人のいとこ)は姉・弟の二人で、市内と隣村に別居
叔父は、発覚したときには末期の肝臓がんで「余命3か月」と言われる状態
その時も家に来て、「お腹に触れるものがある」と私に
まぁ、私が「がん患者」ということは知っていたので…先輩?
相談されても
…なので、M医院の先生に言ってみては
と
M医院でA病院に紹介状を書いてもらって…A病院では治療できないと言われ
大学病院に改めて紹介状をもって行って、抗がん剤治療を受けて
せん妄がでたり、黄疸で痒がったり・痛がったりしていたけど
宣告された余命の倍、自宅で過ごしていました
最期の日も、農機具の手入れをしていたのを見かけていて
まだまだ自宅で過ごせるかなと思っていたのに…
ぶつけたのか
患部が酷くなっていたのか
急変でした
それから叔母の一人暮らしが始まるわけだけど
叔母はとっても寂しがりや、「長男一家と一緒に住みたい」と言っていたの
それは、親戚誰もが聞いているんだけど~~~同居にはならなくて
というのも、長男のお嫁さんの実家は、お父さんが早くに亡くなって
お母さんという人が「一人暮らしは気楽でいい」と言っていたので
自然と娘さんも(叔母の長男の嫁)もそう思っちゃったんでしょうね
そうなると、長男(叔母の息子)もその方が良いかな~~って……なるわよね
車で10分足らずのところに家も建てていたし、子供の転校も絡むと
なかなか引っ越してくるというのは難しいのかも、ね~と良い方に解釈
寂しい叔母は、仔猫
をもらって、それはもう「猫かわいがり」
ウチでも猫
を飼っているので、ますます行き来するようになるのでした
そうするうちに、5年たち、去年あたりから「おばちゃん大丈夫
」
ということも増えてきて、 隣で見ていても、服装とか、行動とかが…不安
一日に何度も「お散歩」するし…義父と同じ
服装も「いつ着替えたの?」と…義父母も同じ、言わないと着替えられない
同じ話を何回もするし、ゴミ出しの曜日とかが分からなくなって…以下同文
やはり娘さんも心配だったので、「ボケ老人看取り
」の先輩の私に相談
・介護認定を受ける
・もし介護度が低くても「デイサービス」を受けられる
・同様にヘルパーさんに入ってもらうことができる
などという話をしたのが今年の2月
速攻で、3月から、週2日のデイサービス・1日のヘルパーさん
の利用が始まったのでした
義父母と違うのは、叔母は「自覚
」していたこと
「この頃いろいろ忘れちゃう」「回覧板の大事なとこ書き出して」と
そこで「物忘れ外来」という認知症について受診することになって
それが9月29日、当日の事です
CT検査を受けているときに「ドキドキする」「気持ち悪い」と訴えて
生憎、心臓専門医がいなかったので、大学病院に緊急搬送
カテーテル術などを受けたけれど、残念なことに
意識が戻ることもなく22時30過ぎにお亡くなりに
私たちが連絡を受けたのは18時半、
その時は「今すぐどうということは無いけれど…」と言われたのに
19時過ぎには「会わせたい人がいたら」という連絡に
主人はすぐに駆け付け
私は…義父母に夕飯食べさせて・薬飲ませて・リハパン履き替えさせて…
急いで駆け付けた病室には、おばちゃんが人工心肺に繋がれていました
呼びかけても返事はなく、手足も冷たく…
あまりにも急なことでした
午前中には草取りをしているのを見かけたのに
心筋梗塞とのこと、発作時は苦しかったでしょうけど
叔父のように「ガンの痛み」で長く苦しんだことを思うと
少しは良かったのでしょうか
叔母ちゃんのご冥福を心よりお祈り申し上げます
にほんブログ村心残りはにゃんこのことではないでしょうか
私の場合…未婚の娘・長男…それから主人、の順番かなぁ
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- 2016/10/07(金) 15:47:43|
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