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個別記事の管理2013-12-02 (Mon)
治療の甲斐もなく、母は亡くなってしまいました
特に最後の入院では苦しんでいる姿が多く
 少しでも和らげてほしいということしかできなかったのが悔やまれました

意識がはっきりしているとき、私によく言っていたことが
「自分でよく調べること」「良いものって言われても鵜呑みにしちゃダメ」
この二つのことです
「良いもの」というものが結果的に癌だったので殊更言っていました
「お医者さんだって人間なんだから、間違えることもある」とも
家族にしても、この点が本当に悔やまれました
あの時、もっと詳しく調べてもらっていたら……
癌ができてしまったことは変わらなくても、その後の道が大きく変わっていたと思います

母の頃とは30年という時代の差があるので情報の入り方も複雑です
今は自分で調べようと思えばネットなどで必要な情報も
 不必要な情報も手に入れることができます
どの情報を信じるかは人それぞれですが
 私は現在の「一般的な意見」を尊重したいと思っています
耳触りのいいことをいう情報もありますが
 私は「甘い言葉は要注意」と、可愛げのない性格です

私も乳がんになってしまいました、それも2回も
多分遺伝子レベルで異常があるのではないかと思います
調べることもできますが、娘がいる身では結果が出ることで
 娘にも影響してくるので、怖くて受けていません
もし、「遺伝子レベル」なら罹ってしまうのは運命なのかと思います
なら、少しでも早く見つけて、奴が小さい内に
 徹底的に有利な戦術で戦っていくしかないかと思っています

こう考えて、母が「命」に関わることで遺した言葉を遂行しています

母が乳がんの手術を受けたのも、私が乳がんの初めの手術を受けたのも49歳の時
「母親が乳がんの場合、娘世代は母世代より若い時に乳がんに罹る」
  こんな文面もありました
なので、若い時から(30代)自己検診はしていたし、市の検診も受けていました
ただ、一年間、検診を受けなかった年があって、翌年発覚したのです
その一年が無ければ違ったかというと……大きさが違うのですね
 治療法は多分同じでも、気分的には違ったでしょうね

母が亡くなってから生まれた娘は、私によく似て=母にもよく似て
 祖母・叔母・母の友人たちからは「生まれ変わり」と言われています
ということはですね、体質も似ているんでしょう
そうなると、乳がんのリスクは非常に高くなってしまうので
 20代ですが、「自己検診しろ」「検診受けろ」更に
「がん保険に入っておいて」と顔を見るたびに言っています
保険は速攻入ったみたいですが、検診も面倒がらずに受けてほしいのです


ただ、母のことを真似しないように心掛けたことがあります
それは、「決して子供の宿題は手伝わない」
私、家庭科が苦手で、裁縫とかは結構母の作品を提出したのです
 これは教育上大変よろしくない!と自分が大人になった時に思い
  子供たちの宿題は一切手伝いませんでした
こういう「反面教師」の面もあります

今56才と、母より年上になりましたが
 母が健在でいてくれたら、いろいろ違ってきたのでしょうね
ひょっとしたら、まだ「母離れ」できない大人でいたかもしれませんね


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母のことを思い出したので、母の夢を見る日が続きました
 若くて・元気な時の姿で。夢でも会えて嬉しかった
















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個別記事の管理2013-12-01 (Sun)
少しずつ回復していたように思えていたのに
7月頃からだんだんと立てない・歩けない・食べられない・痛みを訴える
 という状態になってきてしまいました

「薬を変えます」といわれ点滴の時間も長くなってきて
 ずっと同じ体勢でいるのも辛いと訴えました
むくみも目立ち、腕・足・背中をさすると「楽になる」と言いました
祖母は、朝私の主人の出勤に同乗して行き、昼に私と交代し
 夕飯を済ませてからまた病室に行くという生活でした
完全看護と言いながらも、付添は家族ならOKという曖昧さで
 夏の終わりから、祖母は病室に泊まることが多くなりました

このころから、脳にも転移が始まったためか
 母にとっては初孫が病室にいつもいるような感覚が起きたのか
それとも、一緒に居たいという希望からか
 長男が水色の靴を履いていたので、水色の何かが床にあると
「おいで~怖くないよ~」と呼んでいました
慰めに置いておいたオルゴール人形にも
 「〇〇また小っちゃい赤ちゃんになっちゃて」なんて……
だんだん、母らしくなくなっていくのがとても辛かったです

10月に入り、痛みどめの使用頻度も上がり
 もうろうとなっている時間が多くなりました
痛みどめのモルヒネが切れると、とても痛がるので
 許容範囲ギリギリの利用でした
心臓の機能との相談でしたが、できる限り痛みから解放してあげてほしいというのが
 家族の一番の希望でもありました
目もあまりよく見えなくなってしまい、手で触るのが良いのですが 
 「可愛い可愛い」と思ってくれた長男はまだ幼かったので
「怖い」というようになってしまって、母の気持ちを思うと見ている私が悲しかったです
我慢強かった母が、痛みに耐えかねて発する声が今でも思い出されます

少し持ち直したかに見えたので、交代で帰宅することにしました
 私が帰宅した10月25日早朝、治療の甲斐なく母は天に召されました


55才12日、初発の手術から6年8か月 母がしこりを自覚してから8年余り


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個別記事の管理2013-11-30 (Sat)
1986年、年明け早々から母は背骨の痛みとみぞおちの不快感を訴えるようになりました
食欲も落ちてくるし、洗顔などの動作でも「ふー」とため息をつくように
これは異常であると思い、定期受診以外で外科を受診
転移を告げられた時と同じように本人にではなく
家族にということで告げられたのは
骨への転移が広がっていることと肝臓への転移も著しくなったということ
何より食事が摂れないことが体力低下を招くので
入院して点滴など必要な治療をということになりました

入院時には自力で歩くこともままならず、顔色も土気色でした
それでも、孫の顔を見ると「おいでおいで、おばあちゃんだよ」なんて言っていて
「入院すると〇〇に会えないから嫌だ」というので「毎日行くから」と
愉しみになっていた孫との時間が無くなってしまうのが嫌そうでした


まず初めの治療は、骨、特に腰の痛みをとるための注射、点滴ではありません
(すみません、具体的になんという薬剤だったのか分かりません)
この注射を受けてから、一時自力で立てるようになり、更にはベッド周りを
 歩くまでに回復しました
食欲も少しは改善したのと、食事を摂れることが重要ということで
 家から母の好きな物を運びました
もちろん、可愛い盛りの孫も毎日一緒に
貧血も進んでいたので、レバーとかが良さそうですが
 レバーが嫌いな母には「馬刺し」を買って
口の中の熱も取れるのか、これが一番食が進みました
他には、何故か「ポテトコロッケ」衣は薄目にしたり、外したり
 多分私手作りだったので気を使って食べたのでしょうね
 「また作ってきて」と催促もしました
腰への注射でひょっとしたらという明るい希望を抱いたのですが
 この注射、打つところを間違えると逆効果ということもあるそうで
恐れていたことが母にも起きてしまいました

だんだんと回復して、ベッドの上で孫をあやしたり
 本でも読みたいというようになったのが5月
小康状態だったのか調子の良い日が梅雨のころまで続きました
前日まで起き上っていたのに、注射によるのかそれとも
 がん細胞の力が上になってしまたためか
  突然立ち上がれないようになってしまったのが7月

それからは、回復してほしいという祈りも届かず
 日に日に悪いところばかりが増えていってしまいました



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個別記事の管理2013-11-28 (Thu)
残念なことに再発してしまった母は
1985年早春、入院して抗がん剤治療を受けることになりました
3か月程度という見込み通りの入院でした
治療薬は残念ながらどういったものだったかが分かりませんが
火曜日投与で週末の度・日は外泊で自宅に戻るというやり方でした

私の長男が生まれていましたので、土・日の帰宅が楽しみで
治療を受けているとも言っていました
「一週間見ないと大きくなるね」とか「もう〇〇できるようになったんだ」と
それは成長を喜んでくれていました

Mワクチンを続けて受けたいとお願いしましたが
当時(現在も)「未認可」ということだったので
病院内で治療を受けることができなかったので一時休止しました

入院治療が功を奏したのか体調も良くなったので退院したのが6月
また、通院での治療になったのでMワクチンも再開できました
車での通院も、以前痛みがあったのが痛いと言わなくなったので効果はありましたよね
でも、母にとっては病院での抗がん剤治療より
このワクチンでの治療の方が大切という感じでした

母の初発の時、私はしっかり勤めていたのでいろいろなことを祖母任せ
母と祖母は、親子というより姉妹・友達という関係に近かったので
それはそれで良かったのですが
再発したときは私も家庭に入っていたので
前回できなかった分まで役に立ちたい、支えたいと思っていました

通院の合間には孫と遊んだり、孫の物を編んだりと
ゆっくりとした生活を送ってもらいました
長男の記憶にはないけれど、写真という媒体でいっぱいの思い出が残っています

そんな生活も、年の変わる1986年1月には更に深刻な病状になってしまったのです


現在のこと
明日は3か月ぶりの診察日です
自覚症状はないのですがCEAのみS病院で測ると若干高め
人間ドックの結果は基準値内だったし、半年横ばいなのでS先生も心配ないと
言われていますが……心配です
その他は、頭頂部がスッカスカですというのが悩みですね
また、S先生は来年3月末でご勇退なのでその後のことの話もあるかなと思います
まだ病院は変えずに通おうか、それとも先生が変わるのを機に
通院時間の短い病院に転院しようか迷っています

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個別記事の管理2013-11-27 (Wed)
1980年、母は乳房摘出術・放射線治療・抗癌剤治療を
長期間入院して受けました
乳がん発覚時、ステージⅢということだったので
本人はもちろん、家族もそれなりの覚悟を持っていました

母の希望で、標準治療ではないMワクチンも受けたいということで
兄と私はN大まで説明を聞きに行き
かかりつけ医のK先生にも快諾して頂けたので
標準治療は引き続きO病院O先生にお願いし
普段のワクチン接種はK先生に診ていただくことになりました

4年間は何事もなく過ごせて、その間
私の結婚・長男誕生、兄の結婚と平穏な日々でした

1985年、兄の結婚披露宴で無理をしたのか
その後母が体調が悪いことが多くなりました
「腰が痛い」といい、少し動くと怠いとも言いました

Mワクチンも、初めは自転車で行っていましたが
だんだん体のだるさも強くなったので、私の車で行くようになりました
道路の少しの凸凹でも「痛い!」というので
これは何かおかしいのではとO病院で骨シンチを撮ってもらったところ
残念ながら骨転移を起こしていることが分かりました

私は、現在一年に一度全身検査を受けています
術後はしばらくはS病院で骨シンチとCTでの検査でしたが
PET検査が普及したころから他病院のI病院で受けるようになりました
エビデンス的にはMMG検査が一番勧められるとありますが心配ですものね

母の時、自分が育児が始まったこともあって記憶が曖昧ですが
骨シンチも、こちらから申し出て初めて検査するという経過だったと思います
その他の検査も特に受けていなかったと思います
そして、再発の告知も母にではなく私が呼ばれてでした
私は長男出産とともに音楽教諭を退職して家庭に入っていて
兄は県外に住んでいましたし、父はちょっと問題があって……

骨シンチの映像の結果は、母にはあくまでも転移したということは告げられず
言葉を濁していたそうですが、母は「転移したかな」と言っていました
私にははっきりと「こことここと、肝臓も怪しいです」と告げられました
現在はご本人にというケースが多いようですね
これだけ治療に対する考え方が変わってきたというのか
患者側がしっかりしてきたということもあるのではないでしょうか

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